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映画『沈黙』観ました。

こんにちは、アメルカです。

 

先日、アマゾンプライムに出た映画『沈黙』を観ました。ジャパダムも私もずっと気になっていた映画だったので、観れた良かったです。『沈黙』は終始静かな映画で、2時間40分もありましたが、最後まで見入ってしまいました。

 

 

 

ストーリーは、1600年ころの日本で、キリスト教を日本で布教しようとする宣教師と、踏み絵などで迫害される日本人の話です。

 

1600年といえばだいたい、関ヶ原の戦いの頃で、徳川家康の権勢が強まってきた頃です。私は特に神様も信じていないというか、だいたいの日本人と同じ感じだと思います。お寺にも行くし、神社にも行けば、お賽銭をして神頼みもします。実家には仏壇もあるし、神棚もあります。12月にはクリスマスツリーを飾ります。神様も何もあったものではありませんね。

 

映画『沈黙』を見て、なぜそんなにも神を信じて苦しまなくてはならないのか、人間にはそんなにも神様の存在が必要なのか…と、キリスト教を信じて幕府に迫害される日本人が私には全く理解できませんでした。

神様は人々を救うため、弱い人間の心の支えとなるために、人々が創造したものだと私は考えています。もちろん、私が受験生だった頃や、好きな人ができた時などは、心の中で「神様、お願!」と思いましたが、実際に「神様」という存在が実在するとはそんなに思っていません。映画『沈黙』の中で迫害を受ける日本人キリシタンたちは、どうしても踏み絵ができません。そのために牢屋に入れられたり、刑に処せられたりして多くのキリシタンたちが命を落としました。これは歴史的にも事実です。

苦しい状況にいてもひたすらキリストを信じるキリシタンたち…それでもキリストからの救いはなく、無念にも死んでいくのです。

 

最近のニュースでは、2018年11月に、ベンガル湾に浮かぶインド領の未開の島(北センチネル島)に26歳アメリカ人の宣教師がキリスト教の布教をしに上陸し、未開の島に住む原始的な生活をする部族に殺されるという事件が起こりました。

 

その宣教師は3回も島への上陸を試みたそうです。地元の漁師に頼んで島の近くまで船で連れて行ってもらい、途中からカヌーで上陸しようとして、1回目は矢で撃たれて負傷し戻ってきて、2回目も翌日に、同じようにカヌーで接近しましたが、今度はカヌーを壊されて泳いで戻ってきました。またその翌日に3回目上陸を試み、ついに彼は戻って来なかったのです。先住民によって殺害され、遺体が浜で引きずられているのが、漁師によって目撃されています。

 

ちなみに、北センチネル島に住む住民は非常に攻撃的で、今まで接触を試みた人が殺されていることや、彼らの攻撃性や彼らの文化・存在を保護するという観点から、北センチネル島に近付くことは法律で禁止されています。先住民たちは今もなお謎に包まれている存在なのです。

 

映画「沈黙」を見たり、島での宣教師殺害の事件を聞いたりして、キリスト教が悪い、とか信者がおかしいとは思いませんが、ただ日本人にとってキリスト教に馴染みがないのは、キリスト教が「一神教」だからだと考えます。

他にも一神教で有名なのはイスラーム教やユダヤ教がその典型です。「一神教」とは文字通り、「一人の神様を信じる宗教」です。信仰の対象となる神様が絶対的な存在であり、他の神様を認めません。神様は一人しかいないので、その神様は完璧(全知全能)でなくてはなりません。「一神教」の対義語は「多神教」です。日本はまさに「多神教」、日本のキリスト教信者はわずか1~2%ほどと言われています。

 

一神教とは対照的に、「多神教」は多くの神様を信じる宗教で、有名なのは神道道教ヒンドゥー教です。多くの日本人は多神教だと思われます。多神教の場合は、神様がたくさんいるので、それぞれに得意分野があり、良い神様や悪い神様が存在するのです。特に日本に住んでいると、豊作を祈願したり、受験祈願や恋愛成就、交通安全、安産など、各お守りがあったり、恋愛成就で有名な神社仏閣や受験祈願ならココ、というような感じです。また、太陽の神様や月の神様、火、水、木、草、山、海、石など、自然の中、いたるところに神様がいて、私たちの心や魂が宿っていると感じることができます。食事前後の「いただきます」「ごちそうさまでした」も、自然から与えられたすべての恵みに感謝するという考えが、神道における「神様」という存在につながるのです。神様のおかげで雨の恵みや、太陽の力で食べ物が育ち、私たちが食べ物を得ることができます。しかし、時には神様はお怒りになり、川を氾濫させて家を破壊したり、作物を奪ってしまったりもします。そういう場合は、神様の怒りを鎮めるような儀式も行われてきました。神道では「八百万の神」と言うように、非常にたくさんの神様が信仰の対象となります。

 

日本の民俗宗教は神道です。

神道の代表的な動物はキツネです。多くの神社にはキツネの石像がありますし、新年を迎えるにあたり、キツネの好きな油揚げを買ってお供えする神社もあります(長野県松本市)。神道の神々に幸せにしてもらう方法ですが、まず神社へ行き、大きな鈴を鳴らし、手を叩いてお賽銭をします。そして、好きなことをお願しますね。「素敵な人と出会いたい」とか「お金持ちになりたい」とか「今年も健康でありますように」とか…。神道では自分の欲望をお願いして良いのです。神道の神様は近付いてもなかなか私たちの存在に気づいてくれないので、わざわざ大きな鈴をガランガラン鳴らして「来たよ~」と気づいてもらいます。しかし、鈴だけではまだ神様はぼーっとしているので、さらにパンパンと手を叩いて覚醒させるのです。神道の神様はなんだか親近感が湧きますね。神道で敬う対象は「亡くなった人や死んだ動物」です。目的としては、「一時的な欲望を満たすこと」です。

 

一方で、仏教は、インドで誕生し1,000年の時をかけて日本に伝わってきました。仏教はブッダが神様とされる一神教ですが、日本に伝わった時には、日本人に受け入れられやすいようにブッダ(釈迦)や他の仏(ほとけ)様や菩薩(ぼさつ)も信仰の対象をしました。仏教では、悟りを開いた人を敬う対象とし、変わらない幸福(悟りを開き、輪廻転生から解説する)が目的となります。日本で広まった仏教も、神道と同じく、いろいろな神様を信じてもいいよ~、という都合のいい、融通のきく神様だったので、日本人は喜んで受け入れたのだと思います。

神仏習合」という言葉がありますが、仏教伝来から江戸時代にかけてゆっくりと神道と仏教の良い所がいい具合にミックスされ、調和して日本人の信仰として深く根付くようになったのです。神道は私たちの生活に密着しているもので、自然の中に神様がいて、仏教は悟りを開けば誰もが極楽浄土へ行ける、という人の死後に深く関わるものなので、神道と仏教をミックスさせるのは、日本人の心理上非常に自然な成り行きだったようにも感じます。念仏を一生懸命唱えれば、誰でも極楽浄土に行ける、と言うのが日本人が信仰していたものです。映画『沈黙』では、そんなところにキリスト教の宣教師がはるばるヨーロッパからやってきて、「あなたたちの信じる神は間違っている」、「イエスキリストだけが唯一の神様だ」、「キリスト教を信じない者はみんな地獄へ落ちる」と言われても…、そりゃ信じる方が難しいでしょ、って。だって日本の神様の方が自由だし、融通きくし、我がまま言えるし。さらに、キリスト教の考え方では、キリスト教の信者だけが天国へ行けるので、もし今、「じゃあ、私はキリスト教を信じるね」となった場合、「じゃあ、私の亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、犬やご先祖様も天国へ行けるの?」という質問の答えは「ノー」なのです。キリスト教信者ではなかったご先祖様たちは地獄へ落ちるのです。なぜなら、キリスト教信者ではなかったから。…めっちゃヒドイじゃん?!私たちの神様は念仏さえ唱えれば誰でも極楽浄土に行けるのに!(たとえ現世で悪いことをしても、念仏を一生懸命唱えて悟りを開けば極楽浄土に行けるのに!)と思いますよね。普通に考えれば、人間の心理上、自分の都合の良い方に心を寄せるのが自然です。一神教は日本人の心には響きにくい宗教なのだと思います。神道と仏教でさえ、長い歴史を刻んで日本に根付いたのですから。

 

私は日本の神様たちが好きです。個人的には「神」様は信じていませんが、やはり生活の中のいたるところで、自然の力を感じるのは事実であり、そういったものが神道の「神様」を意味しているので、やはり私も神様を信じていることになるのかと思います。日本人よりも海外の人の方が宗教に関心があり、いろいろな宗教の知識を持っているので、私ももっと自分の国のことについて知らないと恥ずかしいなあ、と感じています。新しいことを知るのは非常に楽しいので、もっと勉強します。

 

 

 今日も読んでいただき本当にありがとうございます!

 映画『沈黙』、ぜひ見てみてください。観終わった後に色々な思いが生まれると思います。

 

 

こちらは、映画「沈黙」の原作で、遠藤周作の本です。

沈黙 (新潮文庫)

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